こころ×障がい×メディア

あそぶ

あそびは「失敗」の実験場 自己理解への遠回りな近道

挨拶

ここ最近、テレビをつければ眼をそむけたくなるような残虐なニュースが飛び込んできて、ネットを開けばトゲのある言葉ばかりが飛び込んできます。このような状況に心身削られている方は多いのではないでしょうか。

私もそんな情報の洪水が嫌になっているのですが、暇があるとついついテレビやネットを見てしまい、なんか疲れる、ということを繰り返しています。学習能力はないんかい。

それで、この前の休みは深夜ドライブに行ってきました。特にどこにも寄らずにただひたすら妻と話しながら走るだけです。深夜の道路は都内でも昼とは全くちがった趣があり、いろいろと取り散らかった頭の中も整理されていきました。

普段は完全にインドアな人間ですが、夜の静かな道を走るのは自分にとっては大事な儀式なのかもしれません。世間の情報の洪水に対抗するには、なにかしらの「遊ぶ」という行為も大事かもしれませんね。

それにしても早いもので、今の職場に入社して三か月が経ちました。生活のリズムも仕事の手順もようやく落ち着いてきたところです。そうなると、ふと「どこかへ遊びに行きたいな」という欲求が顔を出します。
しかし、この「遊ぶ」という行為が障がい者にとってはあまりうまくいかないこともあるものです。

遊びは全然「気楽」ではない

本来、遊びとは気楽なものであるはずですが、これまでも本コラムで触れてきた通り障がい当事者にとっての遊びはしばしばもう一つのサバイバルになります。

例えば、私のADHDの特性はしばしば楽しさへの過剰な依存へと駆り立てます。思いつきで始めた深夜ドライブが気づけば往復6時間の強行軍になり仕事に支障をきたしそうになったり、聴覚障害ゆえに賑やかなテーマパークや人混みの中では雑音に苦しんだりします。

ただ、周囲からは見えない困難で「なにに困っているか」を説明するのが難しい。そのため私たちのような見えない困難を抱えている人が遊びに行くには移動手段の確保から休息まで綿密な計画が必要になります。

「最適化」という病に侵される健常者たち

ただ、ふとX(旧Twitter)などのSNSを眺めていると、遊びに苦労しているのは障がい者だけではないようです。いわゆる「健常者」とされる人々も最近は遊びという行為があまりにも最適化されすぎたゆえにある種の「息苦しさ」を感じているように見えます。

どこへ行くにもネットで情報を仕入れ、失敗しないルートを選びチケットを事前に確保し長蛇の列に並ぶ。SNSで映える写真を撮ってそれを投稿して反応をうかがう。もはや遊びが一つのタスクや仕事のようになっているように感じられてなりません。

インドアの遊びにしてもオンラインゲームや趣味の世界でさえ常に効率や勝敗、あるいはスキルの上下が求められる。そこでは純粋な素人として下手くそなまま楽しむことへのハードルが異常に高まっているように思います。

失敗が許されない空気や情報の裏付けがないと動けない臆病さとかが現代の「遊び」を本来の自由さから遠ざけている気がします。

「失敗の安全地帯」としての遊び

遊びの場は必ずしも外出先である必要はありません。家の中で一冊の本と向き合ったり、不器用な手つきでハンドクラフトをしてみたり、そんな些細なことも遊びです。

精神や発達に障がいがあると手先が致命的に不器用だったり、一つのことに集中して本を読み続けられなかったりと「できないこと」の壁に頻繁にぶつかります。仕事の場でこれらが起きれば「トラブル」になりますが遊びの場であればそれは単なる遊びの一環に過ぎません。遊びとは本来は失敗してもいいものであったように思います。

そういう感覚を大切にすることは、これも以前のコラムで書きましたが、「プライド(自尊心)」を解きほぐすプロセスの一つのように感じます。「いい大人なんだからこれくらいできて当たり前」というこだわりを解きほぐして「上手くできないけれど、これをやっている自分は好きだ」と思えることは自己受容への第一歩になると思います。

私の「阿呆な」生存戦略

最近、私はAIを使ってプログラミングの勉強をしています。これまでは専門知識のなさで毎度挫折していましたが、今はAIという道具があり、不器用なりに「わからないけれどとりあえず動くもの」を作る楽しさに浸っています。

ただ、一度面白さを感じると寝る間も惜しんで没頭してしまいがちなので、作業を始める前にあらかじめ睡眠薬を飲んでしまって薬が効いて猛烈に眠くなったら、そのままパソコンを閉じて寝落ちするという無理やりなライフハック(?)をすることもあります。

意志の力で自分を止めることは正直諦めていて、薬という外部システムを使って自分を強制終了してしまう。これもまぁ、遊びが生み出した一つの対策と言えるのではないでしょうか。

迷走の果てに、一本道ではない明日を

しかしまぁ、「最近、チャレンジしていないな」と感じることがあります。しかし、よく考えればチャレンジできることを持つこと自体が実は非常に高度で勇気のいることなのかもしれません。

私の41年の人生は迷走の連続でした。しかし、その迷走という試行錯誤のプロセスがあって職場でこのコラムを書いています。

遊びも同じで、情報を仕入れて最短距離を走るのではなくて、遠回りをしたり失敗したり迷走してその果てに「なんだかよくわからないけれど、それなりに動くものができた」という小さな喜びを見つけることができたら、それはとても幸せなことではないでしょうか。

自己理解というものは決して綺麗な一本道にはなりません。まぁ、これからも自分も紆余曲折あると思いますが、遊びの中で(もちろん仕事の中でもやらかすでしょうが…)これからも失敗しながら自分の輪郭を確かめていこうと思います。

ですので、皆さんもどうか「上手く遊ぼう」と考えるだけではなくて、まずは自分だけの「心地よい失敗」を探してみてください。その迷走の先にこそ、あなただけの「楽しい」が待っているはずです。

きむら

きむら

聴覚障がいとADHDの特性を持つしろひげ在宅診療所スタッフ。山形県出身。ASDと軽度知的障がいのある妻と江戸川区で二人暮らし。ろう学校を卒業したあとさまざまな職を転々しつつ独自のADHDライフハックを研究している。くらげというペンネームでライター活動などを行っており著書に「ボクの彼女は発達障害」がある。

【NPO法人 しろひげ・たゆらかファンド】
「たゆらかたうん」を制作・発行している「NPO法人しろひげ・たゆらかファンド」では、「たのしく”学ぶこと”でつながる」を始め、「食べること」「体験すること」を通じたさまざまな居場所づくりもしています。
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